ためらい

id:Intermezzo さんからご紹介いただいた、ジャン・フィリップ トゥーサンの『ためらい』読了。

内容(「BOOK」データベースより)
「ぼくがサスエロの村に着いたのは10月の終わりのことだった」…。新作『ためらい』の主人公は、ベビーカーに男の子をのせた、ひとりの不思議な青年。村の、ある一家をたずねてきたのだが、入口まで来ると、突然〈ためらい〉が襲ってくる。カフカの文体を思わせる緊張感が、全篇に流れて、ほんとうに、音楽のように美しい。

内容は、宿屋を中継地点としてある一家‐ビアッジ家‐の屋敷に行きかけたり、やめたり、海岸へ行ってみたり、戻ったり、屋敷に潜入してみたり庭師と雨宿りしたり、といったものである。
最後まで、ビアッジとの関係が友人と言う以上にどういうものなのか、どんな理由で訪問しようとしているのか、主人公はどんな人間なのか、仕事は、子供は息子と言うがどういった事情の下に生まれたのか、といったようなことは明かされない。
文章は、色彩的でフランス的な情緒性豊かと言うべきだろう。一文は長め。
こんな具合だ、

ぼくはしばらく壁際でじっとしていたが、ドアの向こうからは何の音も聞こえてこないので、またゆっくりと歩き出し、食堂に辿り着いた。テーブルの上にはもう朝食の準備がしてあった。か弱い月明かりがあたりを包む中、ナプキンが揃い、各テーブルには、受皿に伏せられたコーヒーカップの白い形が冴えざえと見え、その隣に、小型のバターやジャムを入れた、柳細工の小籠が並べられている。
P.47

問題があるとしたら、この主人公で自意識過剰と言うか妄想壁があり、途中から彼の言っていることが読者は信じられなくなり、ついにはまず疑ってかからなくてはいけなくなる。彼は常に自分がビアッジに監視されていると考えており、夜の散歩にでて宿から締め出されては、道の途中で車を見かけては、灯台へ向かう船を見ては、それとビアッジとにつながりを見出しついには自分への監視に関与したものではないかと信じる。しかもビアッジへの手紙を盗んだり屋敷に勝手に進入したりもする。
萌えキャラは、息子さんで、これは文句なしにかわいい。人が赤ん坊や子供に感じる可愛らしさをそのまま体現しているといってもいい。
 
僕がこの本を読むのに3週間もかかったのは序盤のせいで、初めだけでも5回は読み返した気がする。中盤以降はむしろ主人公への疑念なり物語全体への疑念なりを取っ掛かりにしてスムーズに読み進むことができた。対して序盤は、まさに"ためらい"といった感じで、なんとも蕩けるような文章になんとも夢心地になり、よせてはかえす波に足を晒している気になり動けなくなる。

 今朝、港で猫の死体を見た。

この一文から物語は始まる。主人公は猫を殺したのがビアッジではないかと疑ったり、はたまた猫と同じようにビアッジが殺される妄想をしたりする。
猫が殺される話と聞いて、僕は海辺のカフカを思い出した。あの作品にも猫殺しが出てくる。しかし、この本に出て苦しんだ猫は、結局は殺されたわけではなかったのだ。それが不動の結末で間違いないと思う。
あとは主人公のあんまりにもあんまりな発言に言及するくらいだろうか。だって、『帰ってきたビアッジは寝室の窓に立つぼくの姿をこの後見ることになるだろう』みたいな発言をした次の段落で別の部屋に移動したりするのだ。ビアッジが寝室の窓に立つ主人公の姿を見るためには、主人公はそこを動いてはいけないはずで、動きさえしなければそれは叶えられるだろうに、一瞬で読者の期待を反故にする行動が続く。Intermezzoさんはこの作品を原文で読まれたのだろうか。だとしたら同情してしまう。僕だったらこんなにもつじつまの合わない文章を訳しながら読むなんてコトヲしたら気がおかしくなってしまうかもしれない・・・・・・・
33歳が青春の終わる年と言うのは素晴らしい。
『何も扱っていない本』というのは確かかもしれない。仕事が不明で目的も不明で出自のわからない子供を抱えた33歳の男が主人公でいけない理由など何一つないのだ。ためらい続ける物語もまた。
 
というわけで僕は次のトゥーサンの作品を読みます。もっと時間がかかるかもしれないが
既に借りた『逃げる』か、出来たら紹介していただいたタイトルの別のものがよい。
 

ためらい

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