近代社会契約説の原理―ホッブス、ロック、ルソー像の統一的再構成

ところどころ精読。
福田歓一によってなされた、民主主義を支える原理としての近代社会契約説の、ホッブス、ロック、ルソーについての包括的な研究を、あらためてこの三者の像を統一的に再構成し、近代社会契約説の可能性を問う試み。


社会契約説と聞くと、まず思い浮かぶのがホッブスの"自然状態”。

・生物一般の生命活動の根元を自己保存の本能とする。
・人間固有のものとして将来を予見する理性を措定する。
・理性未来の自己保存の予見から、他者より相対的に優位に立とうとする無限の欲望を持つ。
・人は限られた資源を未来の自己保存のためにつねに争う。「万人の万人に対する闘争」
トマス・ホッブズ - Wikipedia

だから、各人が持つ自然権を制限する自然法によって、自然権を主権者に委ねる契約をするというのは強い説得力を持っています。説教臭さなく、誰でも好きに生きて良いという状態から、権力の前には服従すべしという逆の結論にたどり着く、不思議。
これがロックでは、自然法でよく保障された平和な理想的な状態で不服従も抵抗も許されるとか、ルソーでは人間不平等起源論で人間の孤立した状態を仮定し、自然法概念を明確に否定したりしています。
そこを本書では、「所与/作為」パラダイム存在論全体論や批判的原子論などなどといった言葉を使い説明されていきます。
私が疑問に思っていたいくつかの疑問にも答えてくれたように思います。
・一回の社会契約説がなぜ永続性を持つか
社会契約説とそれによる国家が正当性を持つといっても、それは国家成立時の話で、なぜ今を生きる私が締結した覚えもない契約に縛られなくてはいけないのか。
ホッブスは、子供の両親に対する服従は(彼の批判した)家父長的な自然の支配でなく、子供の同意から導かれるものであり問題とならないとします。
これは強引な感じで、むしろ契約の永続性については本書のテーマといえる「永久革命としての社会契約」の論理で説明した方が適切な気がします。これは社会契約説における作為の論理が所与(歴史宗教伝統)に代わるものであっても自然に代わるものではない、完結性がない(非政治領域等による実践知を要する)ために逆に実存と公共性との関係を模索する不断の契機となるというものです。政治社会の根拠として、一回の社会契約に代わる過程的理解が大事らしいと。ということは私たちは批判的析出を行うことで体制を認めていることになるのか。
自然法概念の基礎というもの、なぜそれが大切にされたか。
もう一つ。私は自然法という実証できない観念が未だに残り、さらに国際社会において幅を利かせているのはそれ自体キリスト教という所与の力を示しているようで好ましく感じていなかった。
今は歴史的には受け入れられる。しかし歴史自体が所与だから、やはり自然法主義は馴染めない。
あとは本書の内容とはズレるけど個人主義批判と共同体尊重の流れか。
全体と個の原理のために中間団体の徹底した排除や非政治領域の切り離しで、明らかに共同体を押しやってた。ロックは頑張ってたけど。日本は共同体弱いし、そのあたりを強調しても悪くないはずですが、手を出しにくい領域であるともいえる(社会契約説的に言って)