たまには(ry

憤慨は一応読了しましたが、5月1日正式にかって、そのときに感想を書こう。
あと今日は夜桜を見ににいってきました(写真は昼間のですが)。
きれいだ。

 名の知らぬ誰かは言いました。
 権力とは暴力・財産・知識であると。
 しかし現代の社会システムに於いて、暴力は政府によって独占され、財は一部上位階層間でのみ相続され、教育は帝王学を除いてむしろ権力におもねる主体的従属者精製を目的としています。世の成り立ちは強者はより強者に、弱者はより弱者に。しかもその枠組みは近年ますます強固になるようで、とても切り崩せそうにはない。
 僕のような地べたを這いずって泥水を啜り、牧草地を見つけては家畜の群れとともに菜の臭味濃い堅葉を噛んで飢えを凌ぎ、しかし家畜をとって殺し糧にしようとは、たちまちのうちにその獣の主から見つかり罰せられるが恐ろしくてできない、そんな人間は階層の最下も最下。権力とは最も遠い場所にいるのでしょう。身につけるのは汚れ擦りきれた幾枚かの布と首輪。首輪は僕の持ち主であった商人が奴隷となったまず初めに着けたもので、僕の人生で与えられた最も丈夫で高価な品に違いない。逃げ出す際に、足に填められた重石と首輪の鎖は砕くことができたが、肝心の首輪だけは外せなかった。僕の力をもってして、首は切り落とせたとしても首輪は外せない。錠が掛かったままだ。鍵は奴隷商人が持っている。もう会うことの許されない相手だ。
 僕は穴暗月翠火珠祭日に奴隷の身分から逃れた。三ヶ月月のでない夜が続いた最後の日、翌夜からの月光復活を祝う祭の夜。滅月期の静寂が嘘のように街はにぎわい活気があり、かしこに炎が焚かれ人々の影が躍る陰影の戯曲。僕も幼い一人の人間だった頃、まだ人狩りにつかまって商品となる前、母に連れられたことがある。楽しみという麻薬が共有され、魔法にかかったよう。一面にまばゆい光がまかれ、どこか遠くから音楽が響き、出店には見たことのない綺羅星のように散らばった品、そしてたくさんのひと、ひと。心躍る非日常。けれど、僕と同じような境遇の奴隷ひしめく商人の牢獄で迎えた祭りは、楽しみの欠片もなく、むしろ残酷だった。不思議と全く異質ではない。同じものの別な面なのだ。僕はなぜ祭りの雰囲気があれほど蠱惑的で凶器なのかを悟った。祭りのなかには「楽しみを」より盛り上げる香辛料に「残酷」が加えられているのだ。甘みを増すために塩を少量落とすみたいに。楽しみを享受できる者とできない者。買う者、売る者と、そして売られるもの。
 僕は祭りとは何を祭るのだろうと考えていた。祭られているのか? 僕は。