私はひとかけらの・・・

私はその時――もちろんまともに考える力があったなら、の話だけど――自分が特殊であるなんて思いもしなかった。比べるべき対象が見当たらなかったし、そうは言ってもある種の必然によって私は生まれようとしていたから。あまねく子供たちが親によって望まれ、神からの祝福を受けるのと同じように、私も望まれ、祝福されて生まれるのだと信じていた。ましてや未だ生まれてもいない試験管の中に浮かぶ私が、無力な自分以外の存在を信じずに、どうして未来を信じることができただろう。あくまで羊水に似た、私を包みこむ薄い青緑色の液体は、滑らかで温かい。

まぁ、言い訳はしないことにして。
 教養科目の実験心理学で学んだことなんだけど幼児期の発話、喃語とかバブリングとかは世界共通で文化や人種の差はないという。それから一語文を一歳くらいで話すようになってやっと母国語の特徴が現れるのだそうな。生まれた時は同じで、環境からの刺激で変わっていくということなのだろう。
 そこで思うのは、では地域というヨコで見てそーなのなら、時間というタテで見てどうなのかということだ。果たして五千年前の生まれたばかりの赤ん坊をタイムマシンで連れてきて現代日本で育てたとしたら、その子は巧く適応するのだろうか。
 そういえば中学校で門脇厚司の「子供の社会力」という本を題材とした授業で著者に自分の意見をビデオレターで送るといったやつがあったのを思い出す。内容はもう詳しく覚えてないけど内容は大体「昨今の子供は社会力がなくて困る」みたいな内容で、私は子供らしい反抗心からか「最近の子供は、っていーますけど五千年前の赤子と今の赤子では生物学的に何が違うんですか? 違わないんだとしたら環境が悪いって事でしょう? それを造った大人が悪いって事でしょう?」みたいなことをオブラートに包んで伝えたような気がする。生物学的に違いはないだろうっていう決め付けに則った見方だし、実は遺伝子には百年分の「何か」が蓄積されていてそれが子供というものをもっと本質的に変えているのかもと思わなくはなかった。本当に生物学的な違いがあるのかないのかは自分でもわからないままだった。
 さて、文章が繋がらなくなってきて若干の焦りもあるけど、やっぱり気にしないでいこう。人間を人間たらしめているモノの一つに(これも教養科目の「認識」で習ったんだけど)「象徴的形態の行動」がある。これは普遍的構造や意味の把握を行えるということで、サルみたいにわざわざ吊ってあるバナナと棒がわかりやすい位置関係でおいていなくとも、
状況とは関係なく棒は遠くまで操作できるもの、と普遍的な意味を把握していることで人はバナナを手に入れられる、ということだったと思う。いちいち自信はないけど。この能力は人間に備わっている。古代エジプトの人たちにも、あんなに立派なピラミッドを建てられたくらいだから備わっていたとみて間違いないのだろう。少なくとも現代と古代の赤ん坊では重要な一つの要素が備わっているという点で同じであるといえるわけだ。
 うん、やっぱり「生まれてくる子に罪はない」なぁと思うね。(でも全く解決した気がしない)


子どもの社会力 (岩波新書)

子どもの社会力 (岩波新書)

土曜

「ねぇ。」僕はいいかげんにイライラして、少し声のヴォリュームを上げた。
「どうして、僕の自業自得的な悲劇について、こんなにも非難されなきゃならないのさ。君が不利益を被ったわけでもないのに。どうして親の仇みたいにして僕を責めることができる?」
 僕は本当にその理由が知りたかった。彼女が僕を叱責する理由について、僕が彼女に責められる理由について。予想がついていないわけではなかった。確信、といっていい程に、答えは僕の中心に鎮座していた。でも一方的な理解だけではダメなのだ。二人にとって納得できる答えは共通の理解から生まれなければならない。だから彼女に問いかけた。自覚してもらうために。一番言って欲しい言葉を、怒りにまかせて言ってもらうために。「なぜ?」と。
 でも彼女は思わぬ僕の反撃に、はっと我に帰っていた。自分自身に対する戸惑いを感じながら質問への答えを探していた。そうして十分に自分を取り戻し、つとめて優しい口調で彼女は言った。
「あなたが心配なのよ。わかるでしょう?」
「違う。」僕は繰り返した。
「絶対に、そうじゃないよ。」

とゆうわけで今日から自動車教習でしたよ。
小説において作者と主人公を混同してはいけないのは第一原則ですからね。もちろんこれはわたしではありえません。でもそれにしても戸籍抄本と住民票抄本間違えたくらいであんなにうるさくしなくていいのに。まったく。むしろ自分が親の実子だったと証明された点では僥倖的な幸いとさえ言っていいだろうに。
そして送迎のバスに乗り損ねて歩いて帰ったのですが、どこかの小説家が速度と思考力が比例するといってたみたいに、歩きながらものを考えるのはいいですね。久しぶりに音楽プレーヤーもしていなくて、歩きながらよしなしごとを考えたり。