小学か中学の国語の授業で、ある詩を扱った時の話だ。
その詩は、著者もタイトルも内容の詳細も忘れてしまったが、

 Aが大事。
 Bが大事。
 Cが大事。
 Dが大事。
 Eが大事。

みたいなことが、箇条書きで、詩的な体裁でもって連なっていた。
先生は『この詩の中で一番大事なのはどれだと思いますか?』と問うた。
文章解釈の問題だ。作者の気持ちは、どの言葉にいちばん表れているのか。
しかし、その質問に答えるの難しかった。各文に明確な優劣はない。
形式も箇条書きなものだから、はっきりこれといえるものがない。
私は無難に、連なりの最後にあるものが一番重要とした。
存外に、クラスのみんなの答えは、結構バラバラだった。
先生は言った。
『今あなた方が挙げたものが、あなた方にとって、一番大事としているか、或いは大事にしたいものです』
私は、先程の『一番大事なもの』というのが作者にとってではなく、
私たちにとってだったのだとやっと気づいた。
作者の気持ちを推し量る事が、鏡のように自分の心を映す詩だったのだ。
私は安易に、最後にあったからと選んだのを恥じた。
私もみんなのように、花が大事とか、魚が大事とか、選べばよかった。
そのほうがずっと人間味がある。
私はなんて浅はかでつまらない人間なのだろう。
あーあ、また失敗した。国語の授業はそれで終わった。
しかし今ならわかる。私は間違いなく選んでいたのだ。最後の文を選んでいた。
それはつまり、最後の文の内容である"Z"ではなく"最後"を選んだということだ。
私が大事だった、というより自分にどうしようもないほど足りないと感じていて、
大事にしたいと思うものは、"形式"とか"規律"とかそういうものだったんじゃないのか。


という前置きはどうでもよく、最近ハヤテのごとく!!のOPの

Life  collaboration
君と僕は メビウスのコンビネーション

という部分が頭の中でループしてはなれない。
いいなっ。メビウスのコンビネーションをする相手が欲しいなっ